日本のチーズの歴史

日本のチーズの歴史

朝食の食パンに乗せるスライスチーズ、給食で出た型抜きチーズ、おつまみに欠かせない6Pチーズ。
私たち日本人にとって、チーズは今や欠かせないものになりました。

実際に日本人のチーズの消費量は近年右肩上がり。
農林水産省が2019年7月に公表した「チーズの需給表」によると、2018年度のチーズ総消費量は35万2930トンと4年連続で過去最高を記録しました。

また、日本輸入チーズ普及協会とチーズ普及協議会は11月11日を「チーズの日」と制定しました。
これは西暦700年の旧暦10月(新暦では11月)に、時の天皇である文武天皇が、チーズの原型とも言える「酥(そ)」を納めるよう全国に命じたことが由来となっています。

チーズがそんなに昔から重宝されていたとは意外ですよね。
そこで今回は日本のチーズの歴史を紐解いていきましょう。

「酪」の語源

日本の歴史を語る上で手掛かりになるのは漢字の成り立ちです。
ここでは酪農の「酪」について考えてみます。

酪の漢字の構成は「酉」と「各」。
「各」は、歩いてやって来る足が固いものにぶつかって、そこでストップする情景を設定した図形です。「(何かに)つかえて止まる」「固いものにつかえる」「固い」というイメージを示す記号です。
一方「酉」は酒と関係があることを示す限定符号ですが、発酵食品を指示する限定符号にも使われます。
したがって「酪」は、牛などの乳が発酵して固くなった食品であることを示すことが分かります。
実際に仏教の大乗経典『大般涅槃経』の中にはこのように書かれています。

牛より乳を出し、乳より酪を出し、酪より生酥(せいそ)を出し、生酥より熟酥(じゅくそ)を出し、熟酥より醍醐を出す、仏の教えもまた同じく、仏より十二部経を出し、十二部経より修多羅(しゅたら)を出し、修多羅より方等経を出し、方等経より般若波羅蜜を出し、般若波羅蜜より大涅槃経を出す

引用:Wikipedia

五味相生の譬 (ごみそうしょうのたとえ) と呼ばれるこの教えは、 涅槃経こそが最後にして最高であると説くため、五味に例えて教えを段階的に説いた経文です。

蘇と醍醐

飛鳥時代645年、大化の改新の頃、呉国(今の中国)から「牛乳」と「酪」「酥」が天皇に献上されました。日本の乳製品の起源と言われています。

その後701年に制定された大宝律令の中で、官制が定めた「乳戸(にゅうこ)」呼ばれる酪農家が都周辺に集められ、皇族用の搾乳場が設けられました。

平安時代になってからは、法典で貢物として「酥」を納める年や数量が決められ、納税の一つとして 「酥」を定めるなど、当時においては大変貴重なものだったことが分かります。

特に897年~930年まで在位した醍醐天皇は酪農の保護に非常に力を注いだと言われています。「醍醐」という、牛や羊の乳から精製した、最上の味のものを意味する言葉を天皇の名に冠したのも頷けます。

ちなみに「醍醐味」という言葉の由来も、「醍醐」からきていると言われています。
残念ながら醍醐の製法は伝承が途絶え、今では幻の乳製品となっていますが、今で言うバターやチーズに近いものだったようです。

近代酪農のはじまり

近代酪農は、江戸時代に徳川 8 代将軍徳川吉宗が白牛3 頭を輸入し、現在の千葉県にあたる安房の郷で飼育を始めたのが発祥とされています。
ここで搾った牛乳に砂糖を加え、煮詰めて乾燥させて作った「白牛酪」は、薬や栄養食品として珍重されていました。今で言う生キャラメルのようなものです。

その後白牛の数は順調に殖え、寛政(1789~1801年)のころには70余頭に達し、その乳から作られる白牛酪の量も増加しました。
高価であったため普及には至らなかったものの、それまで貴族のものであった乳製品が、庶民の目にも触れるようになったのはこの頃と言えるでしょう。

北海道開拓とチーズ工場の誕生

今や酪農と言えば北海道ですが、その地に酪農とチーズがもたらされたのは明治になってからの話でした。

1869年(明治2年)、北海道では北方開拓のために開拓使という官庁が設置され、欧米の技術を日本の産業に活かすため、1873年(明治6年)にはエドウィン・ダンという青年が派遣されました。
彼こそが北海道酪農発展の立役者となった人物です。

ダンはアメリカのオハイオ州で牧場を経営しており、獣医学にも精通していました。当時の日本で西洋獣医学のノウハウを伝えられるのは彼ひとりだったため、彼の役割は大きかったと言えます。
14台の貨車を用いて92頭の牛、100頭の羊、農耕具を携えて日本にやってきたダンは、1875年(明治8年)北海道で牧畜を指導し、翌年の1876年(明治9年)には札幌市で本格的なチーズの製造を開始しました。これらのチーズはおもに神戸や横浜に往来した外国人向けに作られていました。

同じ頃、札幌農学校が開校しました。当時、事実上の学長であったのはかのウィリアム・S・クラーク。彼は徹底した酪農主義で、農場に牛舎を立て乳製品の加工を指導しました。学校で農学の知識を得た多くの青年たちは、卒業後にダンから実践的な技術を学び、その後の北海道の酪農を担っていきました。

6Pチーズの誕生

今やおつまみに欠かせない6Pチーズは昭和生まれです。
1925 年(大正 14 年)に現在の雪印メグミルクの前身である、北海道製酪販売組合連合会(通称:酪連)が発足し、乳加工品の製造がはじまりました。
1928 年(昭和3年)には、バターに続きチーズの製造にも取りかかり、1933年(昭和8年)にはゴーダチーズやエダムチーズといった、本格的なチーズ生産に乗り出します。

プロセスチーズが生まれたのはその翌年のことでした。
「味が穏やかで食べやすく加工でき、保存性も高い」チーズを生み出すため、デンマークでチーズ製造を研究した藤江才介が中心となり開発を重ね、ゴーダやエダムチーズを活用したプロセスチーズが誕生しました。
発売当時の容量は1/2ポンド(225グラム)、価格は2円31銭。当時の大卒銀行員の初任給が70円くらいと言われていますから、なかなかの高額食品だったといえます。
1935 年(昭和10年)、酪連は独特の形状のプロセスチーズを発売します。それが「6ポーションチーズ」です。現在の6Pチーズの始まりです。PはPieceではなく、Portion(一部、部分)の意味。円盤形を6等分していることから6Pと呼ばれたそうです。

6Pチーズはその栄養価の高さと食べやすさから学校給食のメニューとして採用され、販売を後押ししました。「チーズといえばまず6Pチーズを思い出す」という中年層が多いのは、この給食体験があるからでしょう。

日本のチーズのこれから

ここまで、日本のチーズの歴史について紐解いていきました。
変化を遂げながら愛されている日本のチーズは、これからどうなって行くのでしょう。

「ヨーロッパには多くの伝統があり、これらの伝統を守らなければならないという一種の誇りがあります。しかし、日本にはその誇りがないので、彼らは前進し続け、革新を続けることができます。この考え方は最近の日本人チーズ生産者達に広がりつつあります。」これは日本チーズプロフェッショナル協会の松田理事さんの発言です。

事実、日本のチーズ工房は近年躍進を続けています。
2019 年10 月、イタリア北部のベルガモにおいて、ワールド・チーズ・アワード第32回大会が開催されました。1988年に英国で始まった世界最大級の品質評価コンテストで、出品数は世界42カ国から3804作品におよびましたが、見事スーパーゴールドメダルを受賞したのは日本のチーズ工房那須の森(栃木県那須塩原市、落合一彦代表)が製造した「森のチーズ」でした。

これからも日本のチーズ工房から、日本の風土と日本人の感性を生かした新しいチーズが続々と誕生していくことでしょう。日本のウィスキーが世界で認められたように、日本のチーズが世界中に輸出されていく日もそう遠くないのかも知れません。


参考文献

  • 雪印メグミルク 沿革 https://www.meg-snow.com/corporate/history/yukijirushi01.html